「防衛論の進め方についての疑問」は、福田恆存が「中央公論」昭和54年10月号に寄稿した文章である。この文章は森嶋通夫ロンドン大学教授(経済学)が「文藝春秋」昭和54年7月号に「新『新軍備計画論』」と題して、軍備無用の無抵抗降伏論を開陳したことに端を発する防衛論争に投じられたものだが、いま現在にも通じる内容を持っている。というより、まさに目前の問題を明快に解きほぐしているのだ。原文は歴史的仮名遣い・正字体で書かれているが、現代仮名遣い・略字体で引用してみよう。(引用部の小題は小生が勝手に設定)
日本は文民統制以前の武官排除の徹底的な素人優先主義
ところで、問題の日本はどうなっているか。先ず防衛庁は他国の国防省とは違い、総理府の外局であり、首相を議長とする国防会議の議員は非常勤で、外相、蔵相、防衛庁長官、経済企画庁長官の四人から成り、自衛隊の最高責任者たる専門家の統幕議長はこれに出席する権限なく、ただ首相の命により必要なときにはこれに出席する義務があるだけだという事になっている。更に防衛庁には内局というものが文民の目附役として存在し、専門家の自衛官は統幕議長以下一人も所属し得ない。内局の背広組というのは主として警察庁、大蔵省より出向の官吏で固められており、ここでも制服自衛官排除の態勢は崩れない。森嶋氏の希望通り、政府、与党も日本人は未だに文民統制に不向きな国民だと見做し、世界に類の無い武官排除の徹底的な素人優先主義を堅持している。
ここで指摘された制度上の欠陥は、25年後の今でもほとんど変わっていない。上記の国防会議は、「安全保障会議設置法」が昭和61年5月27日に制定され、同年7月1日より施行されたことにより安全保障会議に衣替えされたが、その内容は以下の通り。
・首相を議長とする安全保障会議の議員は非常勤のまま
・議員は総務大臣、外務大臣、財務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣、内閣官房長官、国家公安委員会委員長、防衛庁長官
・自衛隊の最高責任者たる専門家の統幕議長はこれに出席する権限なく、ただ首相の命により必要なときにはこれに出席させ意見を述べさせることができる
実質的にはド素人の船頭が増えただけのことである。「船、山にのぼる」可能性が増えただけではないのか?(笑)
福田氏の指摘は続く。
国会は防衛費審議権を放棄し、予算に関しては自衛隊は大蔵省管轄
これも真に奇異な事だが、吾が国会は防衛費審議権を放棄しているのである。が、欧米流の文民統制を導入するとすれば、軍は装備、兵器、兵力、その他の増減、改良の意見に基づき、各省庁同様、一応の予算案を出し、それを大蔵省が検討して修正案を作り、その両案が議会に回され、審議、検討されなければならない。たとえ文民統制の最高機関が国会ではなく首相、大統領であっても、それは国会として為すべき当然の義務であろう。それを拒否したことによって、自衛隊はますます部外の民として路頭に迷う結果になった。そして予算に関する限り、自衛隊は大蔵省に直属し、その管轄下にある。
そういえば、 超人気ブログ、殿下さま沸騰の日々『てめーらなめんなよっ!』の12月4日の記事「【二発目】元ミスの暴走。誰かこの人を止めてぇぇ。」 の終段に、こういう文章があった。
さて、防衛予算に大なたを振るう財務省主計官・片山さつき氏について読者のCさんから情報(→http: //www.zakzak.co.jp/top/2004_12/t2004120323.html)。『災害派遣は警察と消防に任せればいいわ』『潜水艦なんて時代遅れなものは必要ないわ』。元ミス東大、暴走中である。Cさん曰く。『戦前は軍部が暴走したといっているが、どうしてこのような文官が暴走しても誰も止めないのか。私には分かりかねます』。同感である。誰かこの人を止めてぇぇ。
先の福田氏の指摘(国会は防衛費審議権を放棄し、予算に関しては自衛隊は大蔵省管轄)が、ここに見られる「読者のCさんの疑問」に対する回答になっているのがわかる。25年前の昭和54年(1979年)にも問題視されている、自衛隊発足以来のシステム的な欠陥なのである。
福田氏がこの文章を書いた昭和54年の前年には、いわゆる栗栖発言-自衛隊の部隊指揮官による「超法規行動」を憂慮する発言-があった。この事件に絡めて、文民統制以前の武官排除の徹底的な素人優先主義 の弊害、欠陥をこうも説く。
軍の国家的・社会的地位の歪みを匡そうとする人は少ない
防衛について論じる専門家でも、兵力、装備、軍事費について論じる人は多いが、それ等とは次元を異にする最も本質的な問題である軍の国家的、社会的地位について、その歪みを匡そうとする人は少ない。再び言うが、それは凍結され、隔離され、監禁された状態のままなのである。この文民統制以前の現状を続けていたのでは、有事の場合、現地の自衛隊指揮官は独自の判断で独走せざるを得ぬ。それを防ぐために文民統制の態勢を確立してくれ、というのが去年の栗栖弘臣統幕議長のまことに健全、且つ謙遜なる要請であった。それが誤解され、詰腹を切らされたのは、今の自衛隊が初めから文民統制のもとにあるかの如く振舞った文民政府、国会の責任である。
海外派兵(イラク派兵)が現実となった今日でも、26年前に提起された自衛隊の地位、あるいは制度的な問題はほとんど解決されていない。問題は先送りされつづけている。(栗栖発言の真意とその意義については、JFSS研究会 [国家緊急事態と日本の対応]ページ を参照されたい)
その責任の所在は、福田氏によればこうなる。
政府、与党の事勿れ主義が問題を先送りさせる
国会は主権在民を楯に自衛隊をその統制下におく能力と自信が無いのではない。ただ自衛隊そのものを爆発物同様危険物扱いし、それに触れたがらないだけの事である。(中略)床一面に油が流れている議事堂では、マッチ一本でも危険な爆発を促す。端的に言えば、油とは憲法であり自衛隊法である。それに火がついたら大事である。彼らは日陰者の私生児を入籍させることによって、夫婦喧嘩で夜も日も明けぬようになり、家庭の平和を紊す危険を何よりも惧れているのである。とすれば、外に子供を作った亭主の政府、与党の方が、女房の野党より頬被りの事勿れ主義でひたすら時間を稼ぎたくなるのは当然であろう。
なんとも明快である。西村幸祐氏は「酔夢ing Voice」で「片山さつき主計官と細田官房長官は即刻辞任すべき。」と書いているが、ここは「片山さつき主計官を罷免すべき」であり、その主語は「首相」あるいは「安全保障会議」あるいは「国会」であろう。なぜ政治家が国政の最重要課題のひとつである国防、安全保障の根幹に関わる案件を、たかが財務省の主計官ごときに委ねて恥じないのか?
責任の所在は政府、国会(与党)の事勿れ主義の時間稼ぎにある。そこを看過して、軍備や兵装の問題、あるいは主計官の問題、あるいは省庁間のリーク合戦の問題に矮小化して論じてはいけない。しかし、栗栖発言以来26年、自衛隊発足以来50年、栗栖発言の前史より後史のほうが長くなってしまったということに気づかされ、あらためて嘆息を禁じえない。わが国の政治家は、いったい何をしてきたのだろう? いや、何もしてこなかったのか?
かくのごとく、「防衛論の進め方についての疑問」で論じられた課題は、25年の歳月を経ていまだ色あせていない。しかも、本記事で引用した部分は、プロローグ・第一幕・第二幕・幕間・第三幕・第四幕・エピローグといかにも劇作家らしい6部構成のうち、すべて第一幕『「文民統制」とは何を意味するのか』に収められており、現代に通じる課題は他の部分にも多数ある。第三幕「アメリカが助けに来てくれる保証はどこにもない」第四幕「このままでは最大の軍備をしても国は守れない」という章題からも窺い知ることができるだろう。名著は常に新しく、まさに温故知新なのだ。
※ 「防衛論の進め方についての疑問」は、福田恆存全集の第7巻に収録。
本館サイト: http://www.dd.iij4u.or.jp/~kshimz/ E-Mail: kshimz@dd.iij4u.or.jp
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