角田覚治(かくた かくじ)は、昭和19年にテニアン島根拠地の司令官として戦死した海軍中将である。ほぼ同時に玉砕したサイパン島・グアム島では日本人の民間人も多数犠牲になったが、テニアン島では民間人の死者は非常に少なかった。その理由を、評伝から引用する。
質量ともに圧倒的に優勢な米軍の前に、麾下の航空舞台は四散し、あとは敵が上陸してきたら、陸軍部隊について戦うしかないという状況に追い詰められた昭和19年7月、防備を固めるため、軍に協力して働いていた、婦人、子供をふくむ民間人に挨拶にきた角田は、「ありがとう。皆さん、本当によくやって下さって、ありがとう」と言ったあと、いずれこの島にも敵が上陸してくるのは必至だと語り、最後に
「しかし皆さんは民間人ですから、私たち軍人のように、玉砕しなければならないということはないのですよ」
と言った。
われわれ軍人は最後まで戦って死ぬが、軍人でない者までがむざむざ死ぬ必要はない、降伏して生き延びるべきだ、という意味が言外にこめられており、長官自らが、民間人に向かって、はっきりそう言明したことは、他の玉砕地では例のないことであった。
「闘将 角田覚治」、中公文庫 「太平洋戦争の提督たち」石渡幸二・著より
先月29日に沖縄県宜野湾市で開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」を契機に、歴史教科書の集団自決に関する記述に関して国会まで揉める騒ぎになっている。事実は「軍の命令はなかった(=守備隊の隊長は下命しなかった)」でほぼ決着しているのに、「軍の関与は明らか」と争点がすり替わって問題が拡大した理由を考えてみたとき、角田中将の挨拶に思い当たった。太平洋戦争の日本軍の玉砕地において、民間人に「生き延びてください」「死ぬ必要はない」と言明した現地防衛の最高指揮官が、帝国陸海軍を通じてたった一人しかいなかった、という史実はもっと知られてよい、と思う。
ノンフィクション『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』を著し、「集団自決は軍の命令によるもの」という定説を、実は証拠のない『或る神話』だと喝破した作家の曽野綾子は、こうも語っている。
3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。
(中略)
途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。
第34回司法制度改革審議会議事録
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
赤松大尉も、角田中将のように「われわれ軍人は最後まで戦って死ぬが、軍人でない者までがむざむざ死ぬ必要はない、降伏して生き延びるべきだ」と言えなかったのか。そう言っていれば、「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと大江健三郎にボロクソに書かれる人生を歩まなくて済んだのに、と赤松氏のために同情する。
とはいえ、絶対に言える状況ではなく、そういう発想すら禁じられていた、というのも事実であった。そこが旧軍の悪弊、あるいはそれが国民生活にまで染み渡った戦時中の日本社会の悪弊の最たるところなのだ、私はと考える。そこを研究し、現在の自衛隊、およびマスメディアにその過ちを繰り返させない方策を練るのが、現代を生きる我々にとって建設的な行き方だろう。
いま、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の論調を支持する勢力は、『とにかく「軍の関与があった」のだから「日本軍は極悪非道の行いをした」という記述を減らすな、むしろ増やせ』の大合唱らしい。やってることは戦争中の翼賛メディアと同じく、一方的な観念、スローガンの徹底である。「事実はどうであるのか」は、もはやどうでもいいらしい。ダメだコリャ。
ちなみに、「沖縄ノート」でこの集団自決のことを取り上げ、前述のように赤松大尉を非難した大江健三郎であるが、曽野綾子は上の審議会でこうも言っている。
もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。
だそうな。さすがは大江健三郎、観念サヨクの面目躍如ですな。さらに曽野綾子はこう続ける。
第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。
と大江を描写している。これはいわゆる「観念サヨクの平和主義者」の典型的なスタイルを喝破した、まさしく頂門の一針だなぁ、と感服した。それにしても、観念サヨクのやることは、韓非子の「三人言いて虎をなす」である。たとえ虚構であっても、多数が強弁して言い募っていれば、「政治的には正しい」ことになってしまう‥‥ くわばらくわばら
閑話休題。
いま必要なことは、もし戦争で敵軍に居住地が占領される事態になったとき、「軍人でない者までがむざむざ死ぬ必要はない、降伏して生き延びるべき」という心構えを説くことだろう。歴史の教科書で渡嘉敷島の集団自決を取り上げて旧軍に対して悪口雑言を述べるより前に、公民の教科書でテニアン島の角田中将の挨拶を取り上げるほうが、よほど現代および次世代の日本人にとって有意義だと思うのだが。
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