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2010.06.05

新首相が決まったその日に。

 昭和天皇は昭和62年に発病され、昭和63年の夏は那須で御不例の静養中であったが、「8月15日の戦没者慰霊式には、どうしても行かねばならぬ」との思召しで上京され、式場に非常な無理なお姿で臨まれた。ちなみに、陛下はその後、御不例から回復されることなく、翌年早々に亡くなられた。上記は陛下がいかに戦没者を深くお悼みなされていたかを表すエピソードである。

 今朝の朝刊には、今上陛下におかれても同様であることを伝えるニュースが掲載されていた。

両陛下、戦没・殉職船員追悼式に

天皇、皇后両陛下は4日、神奈川県横須賀市の観音崎公園で行われた第40回戦没・殉職船員追悼式に出席された。

 両陛下は公園内に建てられた「戦没船員の碑」に献花し、第2次世界大戦時に、兵士や弾薬を海上輸送する任務にあたって犠牲になった商船の船員など計約6万3500人を慰霊された。

 ⇒ http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100604/imp1006041248001-n1.htm

 太平洋戦争におけるわが商船隊の奮闘ぶりは、巷間伝えられることの少ない、しかし日本人として決して忘れてはならない史実である。以下は財団法人 海上労働協会がまとめた「日本商船隊戦時遭難史」からの引用である。

(序文)

 太平洋戦争は広大な作戦地域を結ぶ海洋作戦の様相を呈した。そのために、日本商船隊は直接の戦力としてはもとより、軍需物資の輸送力としても重要な任務に当たった。それだけに世界の戦争史に例をみないほどの被害をうけ、その喪失船腹は実に2,300余隻、800万総トンに達し、乗組船員の犠牲も陸海軍軍人の死亡率をはるかに上回ったのである。

(あとがき)

 海運界としては、太平洋戦争において、わが商船隊とその船員が果たした、戦時海上輸送の重大な役割と、その任務の遂行に当たって強いられた莫大な犠牲について、戦後いち早くこれを記録にとどめておくべきであった。広大な作戦地域のなかに展開された今次大戦は、大規模な補給戦であり、戦斗要員はもとより、作戦用資材や軍需品の輸送手段の一切は商船船腹に頼らざるをえなかった。そのため商船は直接の戦力としての任務を課せられた。さらに軍需生産力を高めるために、当時の大東亜共栄圏の物資輸送という戦争経済上の役割をも果たさねばならなかった。従って商船による輸送力こそ、戦争遂行上不可欠の要素であったのである。
 そのため、陸海軍は開戦にあたり、当時、わが海運界は世界第三位の海運国として630余万トンの船腹を保有していたが、その商船隊の過半数を徴用することにきめ、これにより民間商船の大半はその乗組船員もろともに、陸軍徴用船(A船)、海軍徴用船(B船)、また民間船(C船)として、軍の作戦指揮下におかれ、戦時海上輸送任務に従事させられたわけである。そして、大戦の全期間を通じて、その間に新造された船腹を含めて2,394隻、8,018,122総トンもの厖大な商船が、空爆、雷撃、触雷、砲撃などの戦争海難による全損をうけて、大戦の犠牲となった。さらに、船員犠牲者は、戦死、戦病傷死および行方不明をあわせて、戦争参加船員の43%にあたる30,592名(汽船船員のみ)に達し、この死亡率は陸海軍軍人の損耗率(陸軍20%、海軍16%)の2倍以上に達した。

 いま政治家が、先人への慰霊や感謝の念をすっかり忘れて、私利私欲、党利党略のための政争にあけくれ国政を危うくしているなかで、このような国家の柱石への感謝・報恩の義務を果たされる陛下のお姿を拝見して、まことに清清しく思う。

 いかに政治家が情けなくとも、「公ありて私なき」陛下の存在があるかぎり、わが国は安泰である。と思いたい。

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