ダリットの梅干
最近、会社の大先輩が社内報や業界紙・誌に寄稿されたエッセイを収録した私家本を読む機会があった。その中で特に印象に残った文章を、一部転載します。
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それは連合軍のボルネオ上陸が伝えられ、敵機の来襲も日を逐って激しさを増して来た昭和20年の6月下旬のことであった。私は現地軍関係の要請により、西ボルネオの北部サラワク国境に近いダリットという寒村に、同じ会社勤務だったA君、I君と共に入り込んだ。我々の任務は、予想される連合軍の上陸に備えて、西ボルネオ駐留陸海軍並びに民政部、民間人約2千名が最後に終結する作戦地帯の宣撫工作と、半年間持ち耐えられるだけの食糧を準備することであった。
当時の私は、会社の職務上始終奥地森林地帯を踏査し、奥地原住民であるダイア族との接触も深かったので、宣撫工作の方は何とか自信があったが、食糧準備の方は到底出来そうになかった。が、この任務を引き受けないと、現地召集で鉄砲を担がせられるので、仕方なしにこの大任を引き受けることにした。
(中略)
ダリットの村から半里ばかり離れたダイア族の部落に、この方面のダイア族を統率する大酋長ハッサン(仮名)という人物がおり、この人は熱烈なる民族独立運動の闘士でもあったので、私をすっかり信頼してくれて、よく一緒に酒を飲みながらアジア民族の独立解放を語り合った。彼は私に「もし万一連合軍が西ボルネオに進駐して来ても、とてもこの奥地まではやって来れないだろう。たとえやって来たとしても、私には多数の部下がいるから、私が身を以って貴君を護ってあげるから心配は要らない」とよくいってくれたものだった。
だから終戦の数日前に敵機が上空から日本降伏の伝単を撒いて行ったときでも、治安の点では何も心配はなかった。
私は終戦の御詔勅をポンチアナクで聞いて再びダリットに入った。現地軍当局としては上からの命令がある迄、既定方針通り作戦行動をつづけるというのである。従って私の梅干作りとマカンブサール(宴会)も依然としてつづけられた訳である。
こうした日本人の社会と隔絶された環境の中でこんな生活を送っていると、祖国日本というものが遠く霞の彼方に行ってしまって、敗戦の感慨もそれ程リアルなものとなって来ない。ポンチアナクでは、私がダイア族部落に残って帰国しないのだという風評が伝わり、当時の会社の現地責任者の方や、民政部の御関係の方々に随分御心配をかけたようだ。会社の上司から軍当局への強い要請で、9月5日になって軍から迎えのトラックが来た。然し、私としてはこのまま直ちに現地の住民達と別れてゆくに忍びなかったので、特にトラックに御願いして一夜彼等と別れの宴を張らせて頂くことにした。
星が降るように綺麗な夜だった。私は郡長との間で、集荷された食糧や諸物資の受渡事務整理をすませた後、星明りを頼りに、通い慣れた道を大酋長ハッサンのところへ急いだ。そこでは既に各ダイア族部落の酋長達が御馳走を作って私を待っていてくれた。宴が始まる前に、ハッサンから声涙共に下る送別の辞があった。ハッサンのそのときの結びの言葉が今でも耳について忘れられない。「松明に灯をつけてくれたのは日本である。我々は日本に感謝すると共に、その灯を消さないように永久に燃やしつづけてゆかなければならないのだ。」
翌朝まで宴は盛大につづけられ、そのまま私は酔眼朦朧とした恰好でポンチアナク行のトラックに乗せられた。私の作った梅干の樽と一緒に。私はしっかりとトラックの上に立ち上がってハッサンの方に何時までも手を振っていた。ハッサンの顔が溢れ出る涙で次第に見えなくなって行った。
(「ダリットの梅干」、「熱帯林業」昭和50年10月号掲載)
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