10月26日の空 (その1)
時々、無性に戦記を読みたくなることがある。ある年は、2月頃に回天搭乗員の手記、夏過ぎに零戦パイロットの手記を、まとめて斜め読みした。だいたい、同じジャンルの文庫本を数冊買ってきたり図書館で借りてきて、それらに引用されている本も芋蔓式に収集して読む、というスタイルである。
そんな濫読のさなか、零戦パイロットの手記を読んでいるときに、ちょっとした不突き合いを発見した。それは
岩井勉「空母零戦隊」文春文庫(以下、岩井本)
角田和男「修羅の翼」今日の話題社(以下、角田本)
の2冊の記述の異同で、日華事変の最中の、昭和15年10月26日の成都攻撃に関してである。
私が読んだ順に沿って、まず岩井本から該当箇所を引用する。
“ 10月26日、飯田房太大尉の下に、零戦7機で、成都へ索敵攻撃を実施することになった。私もその7機のなかの1機であった。
(中略)
このときの戦闘の状況を述べた、昭和15年10月27日付朝日新聞の第1面トップに出ていた記事を、原文のまま紹介しよう。
(中略)
殊勲の勇士氏名は左の通りである。
飯田房太大尉(山口県徳山中学出身)
山下小四郎空曹長(高知県安芸郡中山村出身)
光増政之一空曹(佐賀県佐賀郡東川副村出身)
北畑三郎一空曹(兵庫県印南郡曽根町出身)
大木芳男二空曹(茨城出身)
岩井勉 二空曹(京都府相楽郡当尾村出身)
平本政治三空曹(東京府出身) ”(岩井勉「空母零戦隊」文春文庫 pp.99-102)
岩井本を読んだあと、別の本を一冊、間に挟んでから角田本を読み始めた。読めば、角田氏はいわゆる予科練、正式には飛行予科練習生(乙飛)の5期であった。岩井氏は6期なので、1年違いの入隊である、岩井氏たち6期は、角田氏たち5期の鉄拳制裁に遭ったのだろうな‥‥ と思いながら読み進めていくと、以下の記述に遭遇した。こちらも引用する。
“ 10月26日待望の成都攻撃に参加する。指揮官は飯田大尉、私は二小隊二番機である。小隊長は歴戦の山下空曹長、三番機も既に歴戦の岩井二空曹である。飯田大尉の了解もあっただろうが、まだ一度も敵に会はない私を特に推薦してくれたのは、先輩東山空曹長であった。
(中略)
この日の編成
指揮官 飯田房太大尉、二番機 光増政之一空曹、三番機 平本政治三空曹
二小隊 一番機 山下小四郎空曹長、二番機 私、三番機 岩井勉二空曹
三小隊 一番機 北畑三郎一空曹、二番機 大木芳男二空曹 ”
(角田和男「修羅の翼」今日の話題社 pp.56-59)
角田氏の名前が、岩井本にはなくて、角田本にはある。「どういうことだ?」と思った。「どちらが正しいのだろう?」と好奇心に火がついて、昭和15年10月に彼らの部隊(漢口基地の第二連合航空隊:12空・13空)に所属していた横山保氏の手記「あヽ零戦一代」(光人社NF文庫)・羽切松雄氏の手記「大空の決戦」(文春文庫)を続けて読んでみたが、あにはからんや、自分たちが参加していない作戦の記述は、まったくないのである。それから、本屋や図書館で手当たり次第、零戦関係の本を漁ってみたが、これに関する記述がなく、一ヶ月ほどで好奇心が萎んでしまったのだった。
(続く)
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