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2016.08.25

10月26日の空 (その4)

 ここまでのところ、判ったことはこうだった。

 ・岩井本は、大阪朝日新聞の記事を忠実に引用している。
 ・角田本は、東京朝日新聞の記事と合致する。
 ・大阪朝日新聞の記事と、東京朝日新聞の記事は、内容が異なる。

 両方の記事をよく見ると、大阪朝日新聞の該当部分は、「同盟○○基地26日発」とあるので、当時の同盟通信社(戦後に共同通信社・時事通信社などに分割された)が配信した記事を使っている。いっぽう、東京朝日新聞の該当部分は、たぶん、朝日新聞社の米山特派員が打電した記事のようだ。こうなると、「朝日 vs 同盟」の様相というか、どちらの記事が正しいの? ってことになる。

 そんなこんなで、横浜から帰宅する電車の中で、考えた。

 「かくなる上は、やはり公刊戦史で公式記録を調べるしかないな。」

 日華事変および太平洋戦争の我が国の公刊戦史は、全102巻の「戦史叢書」シリーズとして朝雲新聞社から刊行されている。まず Wikipedia で戦史叢書のタイトルを調べて、「第79巻 中国方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降」が臭そうだ、とアタリをつけた。次に、近場の図書館でこれを所蔵しているところを探したところ、なんのことはない、東京朝日新聞の縮刷版をコピーした図書館に、戦史叢書も全巻揃っていることがわかった。

 「よっしゃ、再出撃だー」

 そして、戦史叢書の第79巻 、「中国方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降」の記述は‥‥

“ 零戦の初戦果は、(昭和15年)9月13日、重慶攻撃の際挙げられた。この日、我が攻撃隊の爆撃中、逃避していた敵戦闘機約30機を巧みに捕捉した我が零戦13機は、たちまちのうちにその27機を撃墜する大戦果を挙げ、同機種の優秀性を証明した。
 爾後、13機の零戦は、次のとおり年内に成都において2回にわたり大戦果を挙げた。その他の出撃時には零戦に立ち向かう敵戦闘機はほとんど出現しなかった。

 10月4日 零戦8機成都太平寺飛行場上空で敵戦闘機約30機と交戦、6機撃墜、23機撃破、我がほう全機帰還。
 12月30日 零戦12機成都飛行場群を攻撃、33機撃破、我がほう全機帰還。”


 

 ありゃ? 10月26日の空戦は省略されている。大阪・東京の両朝日新聞ともに「10機撃墜」と報じているのに、公刊戦史ではこの扱いか。

 「これじゃ、10月26日の空の真相がわかんねーぞ」

、と毒づきながら、付属図表を見ていくと、「付表第三」に探している記録があった。表題部が「二、昭和十五年から昭和十六年八月まで 支那事変 第二次 航空機搭乗員特別詮議査定便覧 から抄」とある、当該期間中の作戦行動の一覧表である。この表には、岩井氏および角田氏が所属した12空(第12航空隊)が実施した、人事考課においてプラスになる大きな戦果を挙げた作戦行動が、リストアップされていた。
 
600400
 
 上の画像が、その表の一部である。

 右側のマル特(○の中に特の字)行動は、軍司令官から感状が授与された作戦行動、その左のマル甲(○の中に甲の字)行動は、○特に次ぐレベル(いわゆる「殊勲甲」)の戦果を挙げた作戦行動である。なお、○特行動はもっと多いのだが、ブログの画像サイズの制限のため、最初の3つだけを残して残りはカットしてある。上に引用した、戦史叢書の本文で記述された3つの作戦行動(初戦果の9月13日、および10月4日と12月30日)は、すべてマル特行動-軍司令官の感状が授与された-であった。
 
 そして、上の画像で赤枠で囲まれた部分が、ここで話題にしている、昭和15年10月26日の成都攻撃である。
 
Detail
 
 該当部分を拡大したのが、上の画像である。上の欄から順に、「戦闘期日:15.10.26(昭和15年10月26日)」、「攻撃時期:昼」「出発基地:漢口」「攻撃目標:成都」「参加機数:fc(艦上戦闘機)×8」「成果:飛行機撃墜 10、新津北東ノ上空ニテ 敵機十機ト交戦 全機撃墜」 とある。

 こうして、公刊戦史によって、昭和15年10月26日の成都攻撃の参加機数は8機、すなわち角田氏&東京朝日新聞の記述が正しく、岩井氏&同盟通信社が配信した記事が間違っているということが、ようやく確認できた。

(続く)

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