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2016.08.26

10月26日の空 (その5)

 これまでの記述の通り、昭和15年(西暦1940年)10月26日の、第12航空隊による成都攻撃の参加者リストは、「角田本の記述が正しく、岩井本の記述が間違い」の結論が出た。その結論を補強するため、後日、防衛省防衛研究所にある戦史研究センター史料閲覧室にも行ってみた。

・防衛省防衛研究所 (http://www.nids.go.jp/
・史料閲覧室 (http://www.nids.go.jp/military_archives/index.html

 恵比寿駅から、途中にラブホテルが2・3軒ある、ちょっと怪しい通りを抜けて、カルピス本社の脇を通って、防衛研究所の正門まで、徒歩で約10分ほど。

 正門脇の受付で書類に住所・氏名・行先等を記入して、右手の坂道を登ると戦史研究センターの建物だ。史料閲覧室は、この1階にある。

 ここでは、史料番号・史料名を閲覧申請書に記入して係官に渡すと、書庫から出してくれる。目的とする史料があらかじめ確定していれば、ここでの閲覧は簡単だ。あらかじめ、史料閲覧室のWebサイトにある「公開史料目録」から、目指す史料をピックアップしてきたので、その点ではスムーズにいった。
 
ちなみに、当日の資料閲覧中に、こういった相談が聞こえてきた。

(その1)
来訪者「陸軍将校だった兄の記録を調べたいのですが」
担当者「どういった経歴の方ですか?」
来訪者「○○県の歩兵△△連隊の隊付将校で、出征して××方面で戦死したと‥‥」
担当者「それでしたら、まず閲覧室の奥の開架の書棚にある『戦史叢書』を見てもらって、そこに出てくる参考資料を請求してもらうのがいいですね」
(その2)
来訪者「どうも、探している史料がないようですが」
担当者「ここにある史料は、ホームページに目録がありますから、それを先に見てもらえるといいですね。それから、陸軍関係の資料は、ここの他に、靖國神社の遊就館の奥にある『偕行文庫』にも多数揃っているので、そちらにも行ってみたらいいですよ。あちらは土日も開いてますから。」

 さて、当日のお目当ては、「昭和15年7月~10月 12空飛行機隊戦闘行動調書」だ。「10月26日の空 (その4)」で引用した戦史叢書の付表第三(「昭和十五年から昭和十六年八月まで 支那事変 第二次 航空機搭乗員特別詮議査定便覧 から抄」)の、そのまた基となる資料である。


 この史料の来歴は、「海軍功績調査部 調整、昭和30年9月1日 厚生省から防衛庁に引継受」とある。もともと、海軍が人事考課のために作成した、航空機搭乗員(操縦手、通信手、照準手、機銃手‥‥)の功績調書なのだ。この史料をめくっていくと、通番(ページ番号に相等)141の頁に、目指す記録が記載されていた。主要な項目を列挙する。

・日付:S15.10.26
・参加:fc0×8(零式艦上戦闘機 × 8機)
・基地:漢口
・任務:第3回 成都攻撃
・交戦機種:E15型戦闘機×5、フリート練習機×4、輸送機×1、全機撃墜

・行動経過:

 0815 fc0×8 発進
 0915 宜昌着 全機燃料補給
 1125 宜昌発
 1330-1345 新津北東方上空にてE15型戦闘機×5、フリート練習機×4、輸送機×1 発見、交戦
 1400 温江飛行場 偵察
 1405 鳳凰飛行場(ママ) 偵察
 1605 宜昌着 燃料補給
 1710 宜昌発
 1810 fc0×8 基地帰着

・搭乗員
 指揮官 大尉 飯田房太

 1小隊
  1番機 大尉 飯田房太
  2番機 一空曹 光増
  3番機 三空曹 平本

 2小隊
  1番機 空曹長 山下小四郎
  2番機 一空曹 角田
  3番機 ニ空曹 岩井

 3小隊
  1番機 一空曹 北畑
  2番機 ニ空曹 大木


 ‥‥ 搭乗員は、カンペキに角田本と一致していた。

 つまり、角田本の記述は海軍の人事考課史料からも裏付けられた。こうして、真相がわかると気になるのが、岩井本の次の記述である。

“ 筑波航空隊へ

 休暇が終わった時点で、筑波航空隊へ転勤が発表された。
 私はまた、大村から茨城県へ向け急行列車に乗った。途中、東京の上野駅で常磐線を待つ間、上野広小路へと歩いていると、ニュース映画館の前に「成都空襲七勇士」という看板が出ているので立ち止まった。
 興味を引かれて入ってみたら、先日の自分たちの成都攻撃を上映していたのには驚いた。飯田大尉の顔、山下空曹長の顔、そして自分の胴上げされているところが出てきた。なんだかくすぐったくて、あんなことぐらいで内地の人々に報道されるのかと思うと、なおさら恥ずかしくなって、周囲の人々が、みんな私の顔を見ているような気がして、そそくさとニュース映画館を出た。 ”

(岩井勉「空母零戦隊」文春文庫 p.107)


 
 公式記録の参加機数が8機であるなら、海軍報道部が監修したであろうニュース映画のタイトルも「成都空襲八勇士」のハズだ。これも岩井氏の記憶間違い、あるいは大阪朝日新聞-同盟通信社の影響による誤記なのだろうか? こんどはこちらが気になって仕方がない。こういうときにも、グーグル先生が役に立つ。「ニュース映画 成都空襲 八勇士」ググってみたら、簡単に回答が出てきた。

 これも正解は、 「敵機撃墜の八勇士」 なのであった。ここでも、岩井氏は間違っていたというわけだ。このニュース映画は、「NHK戦争証言アーカイブス:日本ニュース第22号」で見ることができる。URLは https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300407_00000&seg_number=005 である。

 かくして、岩井本の記述は間違い、角田本が正しい、ということが証明?できた訳である。とりあえず「10月26日の空」は、これにて終了。最後までお読みいただいた方に感謝します。

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2016.08.25

10月26日の空 (その4)

 ここまでのところ、判ったことはこうだった。

 ・岩井本は、大阪朝日新聞の記事を忠実に引用している。
 ・角田本は、東京朝日新聞の記事と合致する。
 ・大阪朝日新聞の記事と、東京朝日新聞の記事は、内容が異なる。

 両方の記事をよく見ると、大阪朝日新聞の該当部分は、「同盟○○基地26日発」とあるので、当時の同盟通信社(戦後に共同通信社・時事通信社などに分割された)が配信した記事を使っている。いっぽう、東京朝日新聞の該当部分は、たぶん、朝日新聞社の米山特派員が打電した記事のようだ。こうなると、「朝日 vs 同盟」の様相というか、どちらの記事が正しいの? ってことになる。

 そんなこんなで、横浜から帰宅する電車の中で、考えた。

 「かくなる上は、やはり公刊戦史で公式記録を調べるしかないな。」

 日華事変および太平洋戦争の我が国の公刊戦史は、全102巻の「戦史叢書」シリーズとして朝雲新聞社から刊行されている。まず Wikipedia で戦史叢書のタイトルを調べて、「第79巻 中国方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降」が臭そうだ、とアタリをつけた。次に、近場の図書館でこれを所蔵しているところを探したところ、なんのことはない、東京朝日新聞の縮刷版をコピーした図書館に、戦史叢書も全巻揃っていることがわかった。

 「よっしゃ、再出撃だー」

 そして、戦史叢書の第79巻 、「中国方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降」の記述は‥‥

“ 零戦の初戦果は、(昭和15年)9月13日、重慶攻撃の際挙げられた。この日、我が攻撃隊の爆撃中、逃避していた敵戦闘機約30機を巧みに捕捉した我が零戦13機は、たちまちのうちにその27機を撃墜する大戦果を挙げ、同機種の優秀性を証明した。
 爾後、13機の零戦は、次のとおり年内に成都において2回にわたり大戦果を挙げた。その他の出撃時には零戦に立ち向かう敵戦闘機はほとんど出現しなかった。

 10月4日 零戦8機成都太平寺飛行場上空で敵戦闘機約30機と交戦、6機撃墜、23機撃破、我がほう全機帰還。
 12月30日 零戦12機成都飛行場群を攻撃、33機撃破、我がほう全機帰還。”


 

 ありゃ? 10月26日の空戦は省略されている。大阪・東京の両朝日新聞ともに「10機撃墜」と報じているのに、公刊戦史ではこの扱いか。

 「これじゃ、10月26日の空の真相がわかんねーぞ」

、と毒づきながら、付属図表を見ていくと、「付表第三」に探している記録があった。表題部が「二、昭和十五年から昭和十六年八月まで 支那事変 第二次 航空機搭乗員特別詮議査定便覧 から抄」とある、当該期間中の作戦行動の一覧表である。この表には、岩井氏および角田氏が所属した12空(第12航空隊)が実施した、人事考課においてプラスになる大きな戦果を挙げた作戦行動が、リストアップされていた。
 
600400
 
 上の画像が、その表の一部である。

 右側のマル特(○の中に特の字)行動は、軍司令官から感状が授与された作戦行動、その左のマル甲(○の中に甲の字)行動は、○特に次ぐレベル(いわゆる「殊勲甲」)の戦果を挙げた作戦行動である。なお、○特行動はもっと多いのだが、ブログの画像サイズの制限のため、最初の3つだけを残して残りはカットしてある。上に引用した、戦史叢書の本文で記述された3つの作戦行動(初戦果の9月13日、および10月4日と12月30日)は、すべてマル特行動-軍司令官の感状が授与された-であった。
 
 そして、上の画像で赤枠で囲まれた部分が、ここで話題にしている、昭和15年10月26日の成都攻撃である。
 
Detail
 
 該当部分を拡大したのが、上の画像である。上の欄から順に、「戦闘期日:15.10.26(昭和15年10月26日)」、「攻撃時期:昼」「出発基地:漢口」「攻撃目標:成都」「参加機数:fc(艦上戦闘機)×8」「成果:飛行機撃墜 10、新津北東ノ上空ニテ 敵機十機ト交戦 全機撃墜」 とある。

 こうして、公刊戦史によって、昭和15年10月26日の成都攻撃の参加機数は8機、すなわち角田氏&東京朝日新聞の記述が正しく、岩井氏&同盟通信社が配信した記事が間違っているということが、ようやく確認できた。

(続く)

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2016.08.23

10月26日の空 (その3)

 図書館から帰宅して、東京朝日新聞の縮刷版と岩井本とを改めて見比べた。やはり、岩井本に引用されている記事の内容は、これを引用したものとは思えない。縮刷版はその日の紙面の最終版、すなわち新聞社(印刷所)からもっとも近い地域に配布される紙面を基にしているので、岩井氏が見た紙面は縮刷版と完全に一致していない可能性もあるが、それにしても違いすぎる。そこで考えたのは、

 「岩井氏はたぶん、実家に保存してあった朝日新聞の記事を引用したのではないか?」

である。岩井氏は京都府相楽郡の出身とあり、相楽郡は京都府の最南端で笠置山を隔てて奈良県と接しているところだから、大阪朝日新聞のテリトリーである。

 「これはやはり、大阪朝日新聞の紙面を確認してみなければ」

 築地の朝日新聞東京本社に押しかけるという手も考えたが、朝日新聞社サイトの「朝日記念日新聞」を見ると、大阪本社版のコピーサービスを受けるには、大阪本社まで申し出る必要があるという。これはつまり、一般人が大阪本社版の縮刷版なりマイクロフィルムを見るには、大阪本社まで出向く必要があるということだろうな‥‥ と判断して、近場(首都圏)で探すことにした。ググってみると、意外に簡単に見つかった。横浜市にある 日本新聞博物館 に併設されている「新聞ライブラリー」に、大阪朝日新聞の縮刷版/マイクロフィルムがあり、閲覧および複写サービスが受けられるという。さっそく、こちらに行ってみた。

 そして、昭和15年10月27日の朝日新聞(大阪)の一面は‥‥

600400

 上の画像の通りだった(新聞ライブラリーのミノルタ製のマイクロフィルムリーダーの印刷機から出力したものを、さらにスキャンしたのが上の画像)。このうち、赤枠で囲まれた部分が、成都攻撃の記事である。こちらにも、攻撃に参加した面々の氏名が記述されていた。

Namesk

該当部分は、上の画像の通りである。画像はやや不鮮明なので、いちおう文字に書き起こしておく(なお、漢字の旧字体は新字体に変更した)。
 

“殊勲の勇士氏名

【同盟○○基地26日発】 生徒付近で敵十機を撃墜した殊勲の勇士は左の通り

飯田部隊長、山下小四郎空曹長(高知県安芸郡中山村出身)光増政之一空曹(佐賀県佐賀郡東川副村出身)白本政治三空曹(東京府出身)北畑三郎一空曹(兵庫県印南郡曽根町出身)大木芳男二空曹(茨城県出身)岩井勉 二空曹(京都府相楽郡当尾村出身)”

 
 岩井本とほとんど同じだった。こちらには、角田氏の名前が出てない。

 岩井本では、氏名の間違い(紙面では白本政治三空曹となっているが、正しくは平本政治三空曹)を訂正してあるほか、いかにも軍隊経験者らしく並び順を階級順に変えてあるが、まぁ、これは許容範囲内の修正である。しかし、これを見て、また頭を抱えてしまった。

 「岩井本も、大阪朝日新聞を忠実に引用しているという点で、間違いではない。記述は正しい」

さて、真実は那辺にありや?

(続く)

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2016.08.18

10月26日の空 (その2)

 いったん失った好奇心に火がついたのは、その年の9月の、台風に襲われた日である。勤務先から「電車がなくなるから、さっさと帰れ」と14時すぎに放り出されて、無事、電車が動いている間に最寄駅までたどり着いた。あとは歩いて10分くらいなので、「ちょっくら本屋にでも寄っていくか」と駅ビルの本屋に入ったところ、ある本にふと目がとまった。それは

「朝日新聞縮刷版 東日本大震災 特別紙面集成 2011.3.11~4.12」

だった。そのときに、突然、閃いた。

「岩井氏の記述が本当に正しいかどうか、新聞縮刷版で検証してみよう。」

 朝日新聞は以前、東京朝日新聞と大阪朝日新聞に分かれており、それぞれに主筆がいて紙面もそれぞれ異なっていた。そのため、縮刷版も東京・大阪の両方が出ている。そこで、帰宅後まず、朝日新聞社のサイトにある問合せフォーム(アサヒコム・読者窓口)から、以下のような質問を投げてみた。
 

“岩井勉さんが書かれた書籍「空母零戦隊」に、以下の見出しの記事が、昭和15年10月27日付朝日新聞の1面トップに出ている、とありました。

「海軍戦闘機隊の精鋭 成都で敵機十機を撃墜 要人搭乗の輸送機と護衛機」

これが、大阪朝日新聞なのか東京朝日新聞なのか教えていただけませんか。”
 


 
 1時間も経たぬうちに、返信があった。やるなぁ、朝日新聞。
 

“朝日新聞をご愛読いただきありがとうございます。アサヒコム・読者窓口へいただいたメールですが、朝日新聞社の窓口である東京本社・お客様オフィスから返信いたします。

お問い合わせいただいた記事は、東京本社発行の1940年(昭和15年)10月27日付け朝刊1面と思われます。見出しは『海鷲、成都を急襲 敵10機を撃墜 重慶も46次爆撃/重慶大火災<地図>』となっております。

これからも朝日新聞をよろしくお願いいたします。

朝日新聞社 東京本社 お客様オフィス”


 

 岩井氏の記述と、この返信とでは、見出しが微妙に異なるような気もしたが、まずは東京朝日新聞の縮刷版に当たることにした。最近では、公立図書館の蔵書検索がインターネットで可能になっているので、最寄の図書館から手始めに検索してみた。居住地域の図書館には戦前の縮刷版はなかったが、隣接自治体の図書館が保有していることがわかったので、次の休日に出かけてみた。

 その結果は‥‥
 
 600400
 
記事は、上の画像の通りだった(ちなみに、縮刷版はA4サイズに縮小印刷されたものだった。画像はそれを図書館のコピー機で複写したものを、さらにスキャンしたものである)。

 つまり、朝日新聞 東京本社 お客様オフィスのメールの通りである。画像の赤枠で囲まれた部分が、成都攻撃の記事である。ここに、攻撃に参加した面々の氏名が記述されていた。
 
Names_4
 
該当部分は、上の画像の通りである。画像はやや不鮮明なので、いちおう文字に書き起こしておく。なお、旧字体は新字体に変更してある。
 

“ 指揮者飯田大尉(山口県徳山中学出身)は去る5日にも成都北方の鳳凰山飛行場上空で死闘を演じ12機を撃墜した猛者であり同大尉の指揮下に10機撃滅の偉功を樹てた我が戦闘機隊の荒鷲は山下空曹長、光増、角田、北畑各一空曹、大木、岩井各二空曹、平本三空曹の面々であつた、打続く我が海鷲の猛襲に打ちひしがれた蒋政権の政府機関は挙げて成都に移されると噂されてゐる折柄でもあり、5機の護衛機を従へて成都を目指すこの5機の輸送機には必ず蒋本営の有力者が乗ってゐたに相違なく基地では、きつと大物がこの輸送機と心中してゐるぞと踊り上つて喜んでゐる。 ”


 

 「ありゃま、これでは角田本が正しくて、岩井本が間違いじゃん‥‥」
 
(続く)

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2016.08.17

10月26日の空 (その1)

 時々、無性に戦記を読みたくなることがある。ある年は、2月頃に回天搭乗員の手記、夏過ぎに零戦パイロットの手記を、まとめて斜め読みした。だいたい、同じジャンルの文庫本を数冊買ってきたり図書館で借りてきて、それらに引用されている本も芋蔓式に収集して読む、というスタイルである。

 そんな濫読のさなか、零戦パイロットの手記を読んでいるときに、ちょっとした不突き合いを発見した。それは

 岩井勉「空母零戦隊」文春文庫(以下、岩井本)
 角田和男「修羅の翼」今日の話題社(以下、角田本)

の2冊の記述の異同で、日華事変の最中の、昭和15年10月26日の成都攻撃に関してである。

私が読んだ順に沿って、まず岩井本から該当箇所を引用する。
 

“ 10月26日、飯田房太大尉の下に、零戦7機で、成都へ索敵攻撃を実施することになった。私もその7機のなかの1機であった。

(中略)

 このときの戦闘の状況を述べた、昭和15年10月27日付朝日新聞の第1面トップに出ていた記事を、原文のまま紹介しよう。

(中略)

 殊勲の勇士氏名は左の通りである。

飯田房太大尉(山口県徳山中学出身)
山下小四郎空曹長(高知県安芸郡中山村出身)
光増政之一空曹(佐賀県佐賀郡東川副村出身)
北畑三郎一空曹(兵庫県印南郡曽根町出身)
大木芳男二空曹(茨城出身)
岩井勉 二空曹(京都府相楽郡当尾村出身)
平本政治三空曹(東京府出身) ”

 (岩井勉「空母零戦隊」文春文庫 pp.99-102)


 

 岩井本を読んだあと、別の本を一冊、間に挟んでから角田本を読み始めた。読めば、角田氏はいわゆる予科練、正式には飛行予科練習生(乙飛)の5期であった。岩井氏は6期なので、1年違いの入隊である、岩井氏たち6期は、角田氏たち5期の鉄拳制裁に遭ったのだろうな‥‥ と思いながら読み進めていくと、以下の記述に遭遇した。こちらも引用する。
 

“ 10月26日待望の成都攻撃に参加する。指揮官は飯田大尉、私は二小隊二番機である。小隊長は歴戦の山下空曹長、三番機も既に歴戦の岩井二空曹である。飯田大尉の了解もあっただろうが、まだ一度も敵に会はない私を特に推薦してくれたのは、先輩東山空曹長であった。

(中略)

この日の編成

指揮官 飯田房太大尉、二番機 光増政之一空曹、三番機 平本政治三空曹
二小隊 一番機 山下小四郎空曹長、二番機 私、三番機 岩井勉二空曹
三小隊 一番機 北畑三郎一空曹、二番機 大木芳男二空曹 ”
 
 (角田和男「修羅の翼」今日の話題社 pp.56-59)


 

 角田氏の名前が、岩井本にはなくて、角田本にはある。「どういうことだ?」と思った。「どちらが正しいのだろう?」と好奇心に火がついて、昭和15年10月に彼らの部隊(漢口基地の第二連合航空隊:12空・13空)に所属していた横山保氏の手記「あヽ零戦一代」(光人社NF文庫)・羽切松雄氏の手記「大空の決戦」(文春文庫)を続けて読んでみたが、あにはからんや、自分たちが参加していない作戦の記述は、まったくないのである。それから、本屋や図書館で手当たり次第、零戦関係の本を漁ってみたが、これに関する記述がなく、一ヶ月ほどで好奇心が萎んでしまったのだった。

(続く)

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