« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016.09.17

R4: 2000年11月 外交フォーラム 「父の写真」

コスモポリタンの記事と同時に、こんなエッセイもコピーしてきた。自らの「根無し草」っぷりを自嘲気味に書いている。これも最近の彼女の弁明とは毛色が異なるように感じる。

そしてもっと気になるのは、彼女の父親が北京を訪問したタイミングだ。

1991年11月。

1989年の天安門事件から2年後だが、1992年2月鄧小平氏が「南巡講和」を行って世界各国から経済制裁を解除されるよりも前だ。タイミング的には、日中間で経済交流の回復を模索して水面下でイロイロな動きがあった時期に相当する。そんな時に、台湾の華僑が北京の天安門広場に立っている‥‥

ちょっと想像をたくましくしてしまうなぁ。
 
 


巻頭随筆 「父の写真」

 蓮舫(ジャーナリスト)


 天安門広場に掲げられた毛沢東の肖像画を背景に、柔らかな日差しに眼を細め、穏やかに微笑む父親がいる。

 五年前、父が他界してから私の机の上に飾られている写真である。

 写真の日付は1991年11月。その日からずいぶん長いこと私は、台湾人の父が中国大陸の土を踏む意味を考えることがなかった。

 台湾籍の私は、日本語を母国語に、日本人の友だちに囲まれ、日本人のように育ってきた。唯一、他の日本人と違うのは「謝蓮舫」という名前である。自己紹介をする度に

 「中国人?」

 「日本語、うまいね」

 「横浜出身でしょ」

 判で押したような反応が返ってきたものだった。適当に「はぁ」と相づちを打てば相手は納得する。この国に暮らす人は、他者が何人であろうと、それ以上の興味を示すことはない。ならば、と私も自分のことを深く意識することを怠けてきた。

 そんな私が台湾人と中国人の間で、事の大きさを認識することになったのは、今年3月に行われた台湾総統選挙である。大陸を取材すると、社会科学院の人は「(台湾が独立すれば)台湾海峡は火の海ですよ」 台湾海峡での有事を平然と言ってのける。一般の人々は「奪っちゃえばいい」と口々に戦争を支持する。

 一方、自らが選んだ台湾人総統の誕生に酔う台湾人は「大陸なんか怖くない」「われわれには民主化をした自信がある」と口にする。

 「同じ民族なのになぜ」との問いに対して、その違いは明確である。

 大陸の人は「失地回復。だからこそ統一」と言う。台湾の人は「歴史的背景も思考も違う。われわれは中国人ではなく台湾人」と言う。まるで水と油のような関係である。

 そして彼らは私に問いかけた。

 「あなたはどっちの立場なの?」

 すでに帰化した私は完全な台湾人ではない。二年間北京に留学したからといって、大陸のことを100パーセント理解しているわけでもない。どっちつかずの私が足を置くのは、日本なのだろうか。1972年以降、台湾軽視、中国重視政策をとるものの、アメリカ次第でそのカードがぶれる日本の中途半端な姿勢は、長いこと自身のアイデンティティをおざなりにしてきた私の姿勢にだぶってならない。

 父の写真の意味を感じ取るには遅すぎたのかもしれない。だからこそ、今、私は改めて自分の立脚点を探している。

 
 (外交フォーラム 2000年11月号 P.9)

20001100__200011


| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 2000年10月 週刊ポスト 『私は帰化しているので国籍は日本人だが、アイデンティティは「台湾人」だ。』

蓮舫氏が32歳のときに、『私は帰化しているので国籍は日本人だが、アイデンティティは「台湾人」だ。』 と語った記事です。

 参政権を得たいならば帰化すればいい。私は自分が帰化するときに、父にいわれた言葉が忘れられない。父は、  「日本に帰化するということは日本の参政権を手にすることだ」  といった。この言葉に、私は非常に感激した。国を捨て、帰化することを責めることなく、父は日本の政治に参加する権利を得ることが出来るのだといってくれた。帰化して、日本の構成要員になって初めて手にするものが参政権だ。  ただし、国籍に全員がアイデンティティを感じるものではない。私は帰化しているので国籍は日本人だが、アイデンティティは「台湾人」だ。在日朝鮮・韓国人の方たちのアイデンティティは朝鮮・韓国という国家にあるのではなく、「在日」それ自体にあり、非常に複雑。だからこそ、自分のアイデンティティ、国籍を深く考える。日本人はこのアイデンティティと国籍への関心がとても薄いと感じる。

 (「週刊ポスト」2000年10月27日号より)

20001027__20001027


| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 1999年8月 GRACIA 「自分の中で“これだ”と言えるものは中国人であるというアイデンティティー。」

蓮舫氏が 31歳のときに、「自分の中で“これだ”と言えるものは中国人であるというアイデンティティー。」 と語った記事です。

 「あのね、人生経験を積んでいないと言葉が出てこない。マイク握って『現場の悲惨な状況です』、“悲惨”という語彙しか持っていない自分がすごく歯がゆかった。言葉で勝負する仕事なのに、これじゃダメだと限界を感じて、それで、考えたんです。武器じゃないけれど、自分の中で“これだ”と言えるものは中国人であるというアイデンティティー。なのに中国語も話せない。北京に行って勉強しよう、って」  '97年、彼女は夫とともに北京大学へ2年間の予定で留学。

 (「GRACIA」1999年8月号より)


 
19990800_19998_1

 

19990800_19998_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 1997年2月 CREA 「だから自分の国籍は台湾なんですが」

蓮舫氏が、29歳のときに 「だから自分の国籍は台湾なんですが、父のいた大陸というものを一度この目で見てみたい、言葉を覚えたいと考えていました。」 と語っている記事です。



 「私は中国人の父と日本人の母の間に生まれたんですが、父親が日本人として子どもを育てたので日本のことしか知らないし、日本語しか話せない。それが自分の中でコンプレックスになっていました。だから自分の国籍は台湾なんですが、父のいた大陸というものを一度この目で見てみたい、言葉を覚えたいと考えていました。
 2年半ニュースキャスターをやってみて、このまま続けていたら抜けられなくなるな、と思ったんですね。ニュースはいつまでも続けるやりがいのある仕事だからこそ、どこかで自分で線を引いて卒業しなくちゃ、いつまでたっても留学のきっかけがつかめないと、思って決めました。」

 (「CREA」1997年2月号より)


19970200__19972


| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 1995年4月 COSMOPOLITAN 日本版 「国籍は、いつでも簡単に元に戻せるから、帰化に抵抗はなかったですね」

 近時、蓮舫氏の二重国籍疑惑が喧しい。そのなかで、雑誌『婦人公論』の2010年4月22日号に掲載された蓮舫氏へのインタビュー記事が発掘され、この問題が発覚してからの蓮舫氏の弁明とはかなり異なる内容であったことが物議を醸している(http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinoharashuji/20160910-00062037/)。

 上の篠原さんのブログには、こういう記述があった。

“国籍について書かれている資料はもう1件、雑誌『コスモポリタン』の1995年4月に発行された号にもあるようなのですが、資料を入手することができませんでした。当該の雑誌をお持ちの方は調べてみると良いと思います。 ”

 ヤジ馬根性を出して、インターネットでいろいろと調べてみると、いつも散歩している公園の中にある図書館に、当該雑誌のバックナンバーが揃っているという。21時まで開館しているというので、会社の帰りに寄ってみて、そのページのコピーを取得した。おいおいスキャンして画像も公開するつもりだが、 まずは全文を文字に起こしてみた。以下の通りである。

  COSMO人生トーク 私たちは「コンプレックス」を起爆剤に飛躍した

「国籍」で悩み続けてきたからこそ、「ニュースキャスター・蓮舫」がある

   蓮舫さん(ニュースキャスター・27歳)

  ◇「人と違う」ことで傷ついた子供時代

   小学校から青山学院育ちで、何不自由なく育った明るいお嬢さんという印象がある蓮舫さん。でも彼女は物心ついたときから、「国籍」という問題で悩み続けてきた。
 父は台湾人、母は日本人。当時の日本の国籍法により、彼女は父親と同じ台湾国籍に。だが彼女は日本で生まれ、育ち、日本語を話す。“それなのに私は日本人じゃなく、台湾人なんだ”という感情が、いつしか“自分はみんなと同じじゃない”というコンプレックスとなり、重くのしかかった。」
 蓮舫さんに「みんなとの違い」を初めて認識させたのは“名前”。現在結婚して村田姓を名のる彼女の、かつての本名は謝 しゃ(姓)蓮舫 れんほう(名)。
 「小2のころ、みんな自分の名前が漢字で書けるようになったのに、私だけ書けなかった。“謝”も“蓮”も低学年には難しすぎたし、“舫”は当用漢字じゃない。女の子なのに“子”がつかない。だから自分の名前が嫌いだったんです。そのうえ、まだ指紋押捺もあったし、外出には外国人登録証の携帯が義務。どうして私だけが? っていつも思ってました」
 高校生になったころ、蓮舫さんは日本の国籍法の仕組みを知る。同時に感じたのは、さまざまな難題を覚悟の上で国際結婚をした両親のすばらしさだ。彼女は徐々に台湾人である自分を受け入れられるようになった。
 「でもね、電話をかけて名のるとき、“謝です”って言ってもなかなかわかってもらえないの。相手は確認のために何度も聞き返すけど、わずか30秒ほどのその時間が、私にはとても苦痛でした。だから国籍のことをプラスに向けようと思っても、日常生活にマイナス要素が多すぎて、どこか消極的になりがちでしたね」
 '84年、19歳のときに国籍法改正。母親と同じ日本国籍を取得できるようになる。すでに芸能界入りが決まっていたため、台湾籍よりも日本籍のほうが海外に出やすいこと、外国籍だと納税義務はあっても選挙権もなければ年金ももらえず何の権利もないことなどから、彼女は帰化を決めた。

 「国籍は、いつでも簡単に元に戻せるから、帰化に抵抗はなかったですね」

 しかし、許可が下りるまでに、彼女はさまざまな問題と直面せざるを得なかった。特に大きかったのが、彼女の名前。「“蓮”の字は苗字になら使える。ただ、名前としては戸籍法に定める人名用漢字ではないからダメ。“舫”も同じ理由で使えない」と言われたのだ。
 「ほかの漢字をあてはめるか、平仮名か片仮名にしないって。でも、名前って人間のアイデンティティだったりするでしょ。だから正式に漢字で許可が下りるまで、私の名前はカタカナだったんですよ。結局、私は書類上の記号でしかないんだなって、あの半年あまりは、すごく傷つきましたね。そのうえ、窓口で言われたんです。『この名前で本当にいいんですか。一発で日本人じゃないってわかりますよ』ってね‥‥」
 そんなとき、彼女と同じ大学生が起こしたのが <天安門事件>。
 「同じ中国の人の痛みもわからない中国人、台湾籍だった私っていったい何だろうって考え込んじゃったんです。そのときからですね、“いつかニュースキャスターになるんだ”と思ったのは」  以来彼女は中国語会話を習い、中国文化を学ぶために中国映画を見ることも、中国関係の本を読むことも欠かしていない。

◇拠りどころを求め中国を学び続ける
 
 蓮舫さんは、このところ仕事で毎週、神戸の震災被災地に出向く。そこで出会う多くの中国人に、彼女はできるかぎりの中国語で声をかける。忘れられないのはある小学生が口にした言葉。彼女が台湾人だと知って、「じつはオレ、韓国人。蓮舫になら本名言える」。国籍のはらむ問題の重さを改めて痛感したと言う。
 「結局、私には拠りどころがないの。今は日本国籍だけど、本当は台湾人。かといって、台湾籍に戻しても台湾で生活できる自信はないし、どっちつかずなんです」
 だからこそ、彼女はもっと深く台湾を、中国を学ぼうとしている。
 「コンプレックスがあることで、何か努力できるのなら、あったほうが人間強いってことですよね」
 いつかは“アジア問題なら蓮舫”と言われたいという。台湾人であることときちんと向かい合って生きているから、その日は案外、近いかもしれない。

   (COSMOPOLITAN 日本版(集英社)1995年4月号 P.19)
 

19950400__19954

 
 ‥‥ どうだろうか。やはり、このところの発言とはだいぶニュアンスが異なるように感じるのだが。

 これに関して思い出すのが、現代史家の伊藤隆先生の次の文章である。


 “オーラルヒストリーの場合,第一に,対象者の話はしばしば不正確である。年代の間違い,一つの事柄と似た他の事柄との混同などは避け得ない。記憶の不正確さは,自らを省みれば当然の事だが,極めて特殊な人を除けば記憶は一般的に曖昧なものであり,さらにその記憶のもとになった同一時点での共通な経験・見聞でも人によって極端に異なっていることはしばしば験するところである。これらは他の諸史料をつき合わせて充分に検討しなければならない。

 だが,第二に,それよりももっと重要なのは,人間は絶えず新しい状況の下で自己の過去というものを再整理して,それによって自己の再確認をしながら生きているということである。従って思い出された過去はしばしばその人にとっての今日的価値に強く影響されて,変形し,解釈をし直され,不都合な部分は記憶から排除されている可能性がある。特に戦前から敗戦を経て,大きく「世の中の」価値観が変化を余儀なくされた場合などにそれは強く見られる現象である。こうした人間的要素を充分に考慮して活用する必要がある。”


 伊藤 隆「歴史研究とオーラルヒストリー」(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/585/585-01.pdf) より抜粋


 ポイントはここだ。

 『人間は絶えず新しい状況の下で自己の過去というものを再整理して,それによって自己の再確認をしながら生きているということである。従って思い出された過去はしばしばその人にとっての今日的価値に強く影響されて,変形し,解釈をし直され,不都合な部分は記憶から排除されている可能性がある。』

 目下の蓮舫氏にも、当てはまるのだろうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 1993年3月 朝日新聞 「在日の中国国籍の者としてアジアからの視点にこだわりたい」

蓮舫氏が25歳のときに、「在日の中国国籍の者としてアジアからの視点にこだわりたい」 と抱負を述べたという記事です。

 テレビ朝日は4月の改編からニュース番組「ステーションEYE」の新メーンキャスターを同社アナウンサー渡辺宜嗣さん(38)とタレントの蓮舫(れんほう)さん(25)にする。  報道内容の特徴として曜日替わりの特集を組む。月曜が「土・日のスポーツヒロイン生出演」、火曜が「中継企画・記者が行く」、水曜が「シリーズ健康」、木曜が「あの事件、その後」、金曜が「週末企画」などとなっている。  特に火曜の特集としては「蓮舫がこだわるアジアのニュース」との視点から随時、アジア諸国の人間模様を蓮舫さんが特派員として中継をする予定だという。  蓮舫さんは「在日の中国国籍の者としてアジアからの視点にこだわりたい」と話した。

 (朝日新聞 1993年3月16日 夕刊17面)

19930316_17


| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 1993年2月 週刊現代 「私は、二重国籍なんです」

蓮舫氏が25歳のときに 「私は、二重国籍なんです。」 と言ってしまった対談記事です。


三枝  お母さん、いまいくつですか。
蓮舫  50歳。
三枝  ボクとおない年だ。
蓮舫  いいオンナですよォ(笑)。
三枝  お母さんは日本人?
蓮舫  そうです。父は台湾で、私は、二重国籍なんです。

 (「週刊現代」1993年2月6日号)

19930206__199326


| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 1992年6月 朝日新聞 「赤いパスポートになるのがいやで、寂しかった」

蓮舫氏が24歳のとき、『赤いパスポートになるのがいやで、寂しかった』・『自分の中のアイデンティティーは「日本」とは違うと感じる。』 と述べた記事です。



 父が台湾人、母が日本人。19歳のとき、兄弟の就職もあって日本に帰化した。東京で生まれ育った身にとって暮らしに変化はなかったけれど、「赤いパスポートになるのがいやで、寂しかった」。
 父や祖母を通して触れた台湾、アジア。自分の中のアイデンティティーは「日本」とは違うと感じる。

 (朝日新聞 1992年6月25日 夕刊 25面)

19920625_25


| | コメント (0) | トラックバック (0)

R4: 1991年9月 女性自身 「兄弟で、1人だけ国籍が違うのもなんだから、日本籍にしたらどうかと」

蓮舫氏が23歳のとき、「3年前、私も日本に帰化することになったんですよ。」 と語った記事です。

 私の場合、父が台湾出身の中国人で、母は日本人。3年前まで日本では私のような子供はすべて父親の国籍に入れられると決まっていたので、私は台湾籍で、謝蓮舫が本名でした。

 (中略)

 3年前に、日本の法律が変わって、未成年でも、父、母どちらの国籍も本人の意思で選べるようになったんです。そのとき、父が、兄と弟は就職のこともあるから、日本籍になったほうがいいだろうって。ついでにというと怒られるかもしれないけれど、兄弟で、1人だけ国籍が違うのもなんだから、日本籍にしたらどうかと。それで3年前、私も日本に帰化することになったんですよ。
 そのときから、謝蓮舫ではなくて、母の姓の斉藤蓮舫になったわけなんですけど、あまりピンとこないですね。長い間、親しんだ謝という姓に愛着があるというか‥‥。
 ただ、帰化してよかったなと思うこともあります。とくにこの仕事についてからは外国に行く機会が多いんですけど、10年ぐらい前だったら入国がむずかしい中国本土とかほかの国にも比較的自由になったし。

 (「女性自身」1991年9月17日号)


19910917__1991917_1
 


19910917__1991917_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »